意識進化で人はアート的になる!?思考の二元論を超えた先の理解〜不立文字〜
スピリチュアル探求の初期段階においては、とにかく「正解」や「答え」を探しがちです。
自由意志はあるのか?ないのか?
前世はあるのか?ないのか?
宇宙人はいるのか?いないのか? etc..
この様な「問い」に対する「答え」が見つかることが探求の成果だと思っている方も多いと感じますが、実はそれ自体が考え方の間違いだと言えます。
先述した通り、この宇宙には正解が存在しません。
よって、探求によって答えが見つかるということはなく、むしろ探求によって疑問は増える様になっているのです。
思考の二元論では答えに行きつかない
自由意志があるのか?ないのか?
この問いに対しては、私自身は「無い」と答えが導き出せる視座(ロケーション)にて話をします。
これは、自由意志があるとする視座よりも、拡張した認知段階です。
では、なぜ私が「自由意志は存在しない」という視座で話をするのか?というと、その前提において「自己は存在しない」という感覚があるからです。
こればかりは、わたしがその視座にいることが通常運転になっているので致し方ないことです。
お陰様で、普段から「何が起きても大丈夫」「何も問題なんて起きていない」と、自分の人生に対してかなり無責任な生き方をしております(笑
探求者の多くは、やはり「現実をコントロールしたい」「願望実現したい」という方のほうが多い様で、こういった方々にとっては、あいかわらず「引き寄せの法則」や「タフティ」などが人気です。
しかし、引き寄せの法則にしてもタフティにしても、ちゃんと勉強すれば「そもそもコントロールしていると思っている貴方(自我)は幻想」という結論に嫌でも行き着きます。
そして、コントロール権が一切ないのだという理解に至るからこそ、引き寄せの法則やタフティが何を伝えようとしているのか?が解るのです。
これは逆説的に聞こえるかもしれませんが、次元上昇(認識拡張)とはそういうことであり、認識が拡張して自分などいないと解るから、引き寄せの法則が一つの方便として機能するという理由も解るのです。
本物でも偽物でもどっちでも良い

スピリチュアルな界隈にいると必ず聞かれることがあります。
それが「あの人は本物ですか?偽物ですか?」という問いです。
おそらくこういった質問をする方は、「あの人の予言は当たるのか?」「あの人の霊能力は本物なのか?偽物なのか?」ということを聞きたいのでしょう。
しかし私からすれば、そんなことはどうでもよい事であり、偽物か本物か?なんてのは、本人の自己申告でしかないのです。
その人の言う予言や霊視を信じれば、それは貴方にとっての真実の世界になります。
信じなければ、それは貴方にとっては存在しないのと同じです。
これが人間の認知の基本システムです。
しかしながら昨今は、様々なメッセンジャーがネット上で言いたいことを言える時代になってきており、一般的な方にとっては、麻原彰晃の様な気狂いと、近所にいるスピった瞑想の先生とは、いったい何が違うのか?区別がつかないことでしょう。
なので、ここでスピ系の人を見るヒントをひとつお伝えしますと・・・
その人が、アート的であるかどうか?あるいは、メッセージが詩的であるかどうか?が、ひとつの指針になり得ます。
思考を超えた理解はアート的(詩的)になる
何故か?というと、本当にスピリチュアリティを深く理解している方、探究によって覚醒してしまっている方、悟ってしまった方というのは、思考の二元論を超えているからです。
よって、メッセージは二元的ではなくなります。
つまり、答えを断定することが少なくなるということです。
私自身は、自由意志はないという視座で話しをしますが、自由意志があるという視座で話しをしてくれと言われたら、引き寄せの法則や自己啓発系のメッセージも、いくらでも話すことはできます。
何故なら、視座を落とせば良いだけだからです。
こう言った視座を落としたメッセージを仏教では「方便」と言い、とりあえずの嘘によって、より拡張した認識へと誘うアプローチです。
そもそもスピリチュアリティのメッセージや、特に非二元のメッセージは、言葉では表現できません。
何故なら、言葉は必ず相対的(二元的)になるからです。
本質的メッセージは、思考(二元論)を超えた伝え方になります。
その結果として、メッセージには一見すると矛盾が混ざり、どうとでも解釈できる意味のわからない言葉になりがちです。
言語では表せない不立文字
詩的表現の中に、如何に本質を読み取ることができるか?
言葉では伝えることができない何か?を如何に汲み取るか?は、その人の感覚に依存します。
仏教経典にしても、TAOにしても、一旦解ってしまえば、それは答え合わせのためのテキストになり得ます。
よく非二元では体感が大事だと言われます。
不立文字と言われるように、禅仏教においても、基本的には言葉は意味をなさないことを伝えています。
よって禅の世界では「隻手音声」と言った様な公安が作られ、師匠が弟子に対して「片手で拍手をしたらどんな音が出るのか?」という答えのない問いを出すことによって、言葉では伝えることができないメッセージを伝えようとするわけです。
禅の世界だけでなく、非二元の界隈でも「体感」が大事だということはよく伝えられますが、私自身は、この「体感」という言い方がどうにもしっくり来ません。
体感というと、体に電気が流れるとか、背骨が熱くなるとか、こういった明らかな体の変化が起きることの様に感じてしまいますし、私もそう言った体験はしたことがあります。
しかしながら、そのような肉体変化が起きたとしても、それを体験した時点で、すぐさま思考の二元的理解になるのは同じです。
よって、不立文字という言語を超えた理解とは、身体による体感体験というよりも、どちらかというと、五感や脳という身体細胞も含めた認知システムのバージョンアップの様なものだと私は捉えています。
先ほどもお伝えしました通り、私自身は「自分がいる」という視座において、引き寄せの話をしたり、自己啓発的なアドバイスをすることも出来ます。
しかしその場合は、私の認知システムを一旦ダウングレードして話すということになり、私の素の状態では、やっぱり「私も世界も存在しない」という、いつもの視座に留まってしまいます。
これは体感というよりは、認知プログラムの変更が起きた、と言った方がしっくり来るのです。
アート的に生きるヒント

そんなわけで、スピリチュアリティの本質や非二元は、言葉を超えたメッセージになってしまうのは致し方ない事です。
仏教では「無記」と言い、そもそも本質は言葉では伝えられないと最初から理っています。
なので、覚者ほど最後は黙り込むのです(笑
それをなんとか言葉で表現しようとすると、メッセージは詩的になります。
あるいは、人によっては言葉ではなく、音楽や踊りや絵画で表現しようとします。
これが、アーティストにスピリチュアルな方が多い理由です。
俳優の方は、演じることによって自分のアイデンティティをコロコロと変更します。
これは、そもそもアイデンティティが存在していないという理解が根底になければ、ストレスによって自己崩壊しがちになります。
なので、俳優業の方もスピリチュアルな方は多いのです。
とは言っても、アーティストとは決して職業のことではありません。
それはむしろ生き方であり、自己表現だと私は考えています。
お料理をするのにも、お掃除をするのにも、気持ちはアート的に。
アート的なので、そこには表現の真剣さはあるかもしれないが、損得の計算はない。
アート的に生きれば、楽しさはあっても苦しさはない。
これからの時代、AIなどのテックの進展により人間は不要な労働から解放されていきます。
ユニバーサルベーシックインカムが施行されれば、必然的に暇な時間もできる。
そんな時代において、人はどう生きるか?という問いを立てた時に、私なら「アート的に生きる」と答えます。
最後に、私が敬愛する、アート的表現が得意なラーダちひろさんのチャンネルをご紹介⭐️🐻
→沈黙の声
続く・・・