恋愛が本質的な愛から最も離れてしまう理由〜無条件の愛とは何か?〜尊重と感謝のお話

「神とは愛である」

聖書を愛するキリスト教では、こんなニュアンスのメッセージが牧師の口から語られることは珍しくありません。

では仏教はどうか?と言うと、実は仏教は「愛」を否定的に捉えています。

仏教では愛を「渇愛」と表現し、それはすなわち執着と同義と説きます。

ところで皆様は、パートナーや自分の子供を愛していますか?

こう自問自答すると、多くの方は「もちろん愛している!」と答えることでしょう。

では、貴方が愛していると感じる対象「パートナーや子供」が、貴方の望まない言動を示したら、貴方の心はどう動くのか?ここで思考実験をしてみましょう。

例えば、愛する子供がいよいよ大学進学を目指す年齢となった時、子供が「大学には行かずに上京してミュージシャンになるんだ!」と言い出したら、親としてどう思いますか?

例えば、愛し合っていると信じていたパートナーが、「他に好きな人が出来たので別れたい!」と言い出したら、貴方はどう感じますか?

このときの反応で、貴方が相手を本当に愛していたのかどうか?を知ることが出来ます。

愛とは相手を許して受容すること

この様な思考実験で解ることは、多くの方が愛だと思っているものは、むしろそれらは執着や所有欲であり、愛とは真逆のベクトルにあることが殆どだという点です。

キリスト教で言う愛とは「無条件の愛」のことであり、多くの方がなんとなく認識している「条件付きの愛」のことではありません。

子供が進学せずにミュージシャンになりたい!と言い出した際に、「ミュージシャンなんてとんでもない!そんな不安定な仕事に付くのは親として許せない!」と言った感情が出た場合・・・

それは愛でもなんでもなく、「自分の所有物である子供を自分の思い通りにコントロールしたい」という欲であると言えます。

パートナーが、別れたい!と言ってきた時・・・

「別れることは絶対に認めない!貴方は私のものなのよ!」と言い出したら、それはすなわち所有欲、コントロール欲求であり、相手の尊厳を踏みにじろうとしていることになります。

仏教では、こういった愛に似た「情欲」のことを「渇愛」と表現し、それは執着と同義だと説きました。

ちなみに仏教では、キリスト教が言うところの愛という表現は「慈悲」という言葉で伝えています。

仏教で言う慈悲は、キリスト教で言う「無条件の愛(アガペー)」です。

つまり、宗教経典の本質的なメッセージで語られる愛とは、100%の信頼と、完全な受容の態度のことなのだと言えます。

自我は本質的な愛を知ることは出来ない

クリシュナムルティも愛についてのメッセージをいくつか残しております。

彼曰く、人間(自我・思考)が、本質的な愛を知ることは絶対にできないと言います。

私たちは、この地球上では肉体と同化した精神機構の上に生きています。

この状況は、どれだけスピリチュアル的に目覚めた人や悟った人でも同じであり、肉体精神機構を持って生きている以上、私たちの感覚は主体と客体という相対的分離による認知しか出来ないようになっています。

もちろん、探究によって自我の機構を見抜き、自我に巻き込まれなくなることは出来ます。

或いは、見性体験によって、本質的な愛のエネルギーを一瞬だけ垣間見る(一瞥)をすることは、人によってはあるでしょう。

しかし完全に自我から離れることは、それはすなわち「死」と同義なので、私たちが地球上で生きている以上、ある程度の分離感を抱えて生きるしかありません。

そして、分離感がある以上、無条件の愛は相対的に分裂します。

自分と相手との間で語られる愛の言葉であったり、肉体を使ったセックスやハグのような行為は、思考や感情という肉体精神機構のフィルターによって変換され、「愛情」という「情欲」に変質します。

私たちが二元の世界で生きる以上、私たちが感じることが出来るのは、愛が変換された、愛に似つつも愛とは違ったものなのです(笑

バレンタインになると、女の子は男の子にチョコレートを渡したがります。

これは、愛というエネルギーが「(主体が)チョコレートを(客体に)与える」という二元的な行動(Doing)に変換されているということです。

プレゼントが愛情表現のひとつであるのは確かですが、それは愛を物質転換させることによって表現した作為的行為であり、作為(カルマ)である以上、仏教はこういった事をも執着とみなすわけです。

自我は、無条件の愛を、条件付きの愛に変換します。

よって、人間は自我で生きている以上、自我が本質的な愛を知ることは絶対にありえないのです。

自我を解体し、尊重と感謝で無条件の愛へと移行する

皆んなが愛と呼んでいる恋愛は最たる例であり、多くの場合で「相手を落としたい、コントロールしたい」と言った、愛から最も離れた情欲でしかありません。

そして、愛情がさらに歪んだ方向へと向かうと、「相手を拘束したい」という欲が強まり、ストーカーになったり、「相手を自分以外の誰にも渡したくない」という欲によって、相手を傷つけようとしたり、ひどい時は相手を殺めようとしてしまう場合だってあるのです。

分裂した愛に似た愛ではないエネルギーは、二元的である以上、コインの裏表のように簡単にひっくり返ります。

だから、「好き」→「憎しみ」に、簡単にひっくり返るのです(笑

キリスト教の言う愛、仏教の言う慈悲、こういった本来的な無条件の愛は、つまるところワンネスであり、相対的ではなく絶対的です。

絶対的な無条件の愛がひっくり返ることはありません。

では、恋愛から本質的な愛を知ることは出来ないのでしょうか?

子供を愛する愛情という情欲から、本質的な愛を知ることは出来ないのでしょうか?

これはかなり難しい問いですが、私たちが本来的な愛に戻る方法は、一言で言うと許しだと言えます。

まずは相手を認めて、完全受容し許すこと。

すべてが宇宙の摂理による完全な摂理だと認め、客体的現象をすべて赦すこと。

子供が進学を拒否してミュージシャンになりたいと言い出しても「ママは貴方を信じている、思うように生きなさい!」と言ってあげられるのが、相手を完全受容し相手の態度を許すということです。

パートナーが別れたいと言い出しても、「私と別れても幸せになってね!いままでありがとう!」と、笑顔で相手の態度を尊重し、相手に感謝するということで見えてくるのが本来的な愛だと言えるのです。

愛とは「赦し」や「尊重」や「感謝」によって見えてくるものであり、これを達成するには、自ずと自我を解体させていく方向性になります。

つまり、無条件の愛と、自我(心)が行う恋愛の情欲は、真逆のベクトルなのです。

愛とは、自我を溶かすエネルギー。

愛のエネルギーは、とてつもなく熱く、貴方の自我(心)を解体します。

目覚めとは、時にこういった痛みのプロセスを伴うものなのです。

続く・・

類似投稿

8件のコメント

  1. 頭ではわかっちゃぁいるけど、なかなか手放せないな〜と少し苦しんでいましたが、改めて文章として読ませていただくと、頭が整理されて、心が軽くなりました😄
    自我からは解放されませんが、だからこそ自分を俯瞰して、出来るだけ軽やかに過ごせればなと思います。

    1. 頭ではわかっている、実はこれだけで全然違うんですよ〜⭐️
      (●´ω`●)ノ⭐️🐻

  2. 本当の愛は「慈悲慈愛」とは聞きましたが
    深層心理ではまだよくわかっていない感じです。

    1. 慈悲と慈愛はそれぞれ違ったニュアンスの言葉ですね👀
      ぜひご自身の感情で違いを感じてみてください🐻

  3. こんばんわ。

    無条件の愛と情欲や性欲、渇愛などの違いを自分なりに追求してきましたが、こちらの記事で簡単に解決できました 笑

    私は渇愛や執着だらけで、それがあるからこそ、私は人間であり、それらが無くなったら死を意味するのでしょうかね。

    恋愛なんて無条件の愛とは真反対ですよ。

    なぜ相手が好きか、美人だから、イケメンだからとても愛している、だけど相手が太ってしまったら気持ちが冷めてしまうだなんて、条件付きの性欲ですよね 笑

    私は無条件の愛までたどり着けなくて苦しい人生だったからいっそのこと、諦めて、渇愛や執着や性欲を認めてこれからは生きていこうかなあと思ってしまいました。

  4. 無条件の愛とは、私が人間でいる限り到達するのは無理だと理解してます。でも、自分の周りの人たちの選択を快く許すということはできるようになるかもしれませんね、人情とか正義とかに縛られなくなれば?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です