祈りや瞑想がなぜ大事なのか?
こんな事を言うと・・・
「え?祈りと瞑想は違うのでは?」と感じる方も多いかもしれませんが、根源的に言えば、祈りも瞑想も目指すところは同じなのです。
ただ、到達点へ向かうための方向性やベクトルが違うと言えます。
西洋(祈り)と、東洋(瞑想)
ラジニーシOSHOは、生前に書籍の中で以下の様なことを語っていました。
東洋は瞑想(アローンネス)に偏重した。
愛や関係性、現象世界を軽視して内面へと引きこもった結果、生気が失われ、生きることに対するある種のニヒリズムや消極的な虚無主義に陥ってしまった。
これが東洋の限界だ。
一方、西洋は愛(関係性/他者)や物質、アクティビティを追求した。
しかし、内面の瞑想的な根っこ(中心)を失ったため、表面的な愛はエゴのぶつかり合いに終わり、最終的に神(全体性)や自らの本質から離れ、精神的な迷子になってしまった。
これが西洋の限界だ。
これからの新しい人間「ゾルバ・ザ・ブッダ」は、東洋の瞑想(内面・縦の軸)と西洋の愛(外面・横の軸)の双方を統合しなければならない。
この言葉はとてもわかりやすく、また、OSHOの活動していた時代背景に色濃く出ていた、西洋と東洋がそれぞれ抱えているスピリチュアリティに対する偏重も、よく現れていると思います。
特に、ヒンドゥーや上座部仏教などは、人里離れ山に籠り、人付き合いも一切無くしてしまう様な修行法を用いるので、どうしてもニヒリズム的になりがちだと思います。
ただ、個人的には、大乗仏教や空海が持ち帰った密教などは、キリスト教(景教)のエッセンスが混じっているので、内側だけじゃなくて外側も大事(皆んなで大きな船に乗ろう!)的な愛の精神も上手く混ぜられていると感じます。
一方キリスト教は、牧師を仲介役として、外側に神(愛)を求めました。
その結果として、自身に内在する神性そのものを忘れがちになっています。
OSHOの言う西洋と東洋の抱える探究における偏重は、それらが統合された時に真のスピリチュアリティとして進化すると言うことなのでしょう。
東洋では自身の内面に入り、思考から離れることによって全体の意識へと降下していき、自身の中に神性を見出すことを試みます。
このための手段が瞑想です。
西洋では外側の愛を受け取り、自分という個から全体へ向かうために、外側から自身の神性を引き上げてもらうことを試みます。
そのための手段が祈りです。
そして、瞑想も祈りも、その本質的なやり方は、自分(我)を消して委ねていくことは同じ。
最終的には無心になり、ただサレンダーすること。
アプローチは違えど、瞑想も祈りも、本来の機能や目的は同じだと言えます。
瞑想と祈りの真の目的と機能
たとえば、祈りとは「意」を「宣る(宣言する)こと」という解釈があります。
これは確かにその通りですが、ただ私の感覚で言うと、この理解は、スピリチュアリティをワンネスや非二元で捉えた解釈ではなく、引き寄せの法則的な意味合いに重きを置いた解釈だと思います。
もちろん、祈りと聞いて「自分の願い事を唱えること(我欲の波動を出す)」と解釈することは、まったくの誤りだと言わせていただきます。
願い事(煩悩)はエゴを発揮するわけですから、逆に神性から離れる行為でしょう。
真の祈りの到達点は、委ね・降伏・サレンダー。
真の瞑想の到達点も、手放しであり、サレンダーです。
もちろん、祈りにしても瞑想にしても、最初は「祝詞に集中する私」や「呼吸を観照する私」という主体と客体の二元に分かれた視点から入ります。
しかし、次第に作為が手放され、主体と客体の分離感覚は溶けていきます。
これは祈りも瞑想も同じなのです。
キリスト教神秘主義では、静寂主義や静心の祈りと呼ばれており、マイスター・エックハルトなどの神秘家たちが到達した「深い祈り」は、言葉を介さない静寂だったと言われていました。
それは正に、東洋的な瞑想、あるいはワンネス体験と同じだったと言えます。
ヒンドゥー教のバクティ・ヨーガ(信愛)と、ジュニャーナ・ヨーガ(知識・瞑想)は、神への献身と祈りを徹底する道(バクティ)と、「私は誰か?」を問い続けて自己静観する(ジュニャーナ)だと言えます。
この両者も、最終的にはアートマンとブラフマンの一致に辿り着き、無我・無私を目指すものとされています。
というわけで、祈りと瞑想は実は同じなのです♪
皆んなで祈る、皆んなで瞑想するパワー
皆様ご周知の通り、7月28日に九州熊本で大きな地震がありました。
こんな時、私たちは何ができるのでしょうか?
こんな時こそ、私たちにできることは、実は、祈りや瞑想なのです。
大人数で同時に祈る、大人数で同時に瞑想する。
メカニズムこそ分かりませんが、このエネルギーの共鳴は、日本だけでなく地球全体の波動とシンクロしていると感じます。
これは、数人で瞑想したことがある方や、オンラインで場所が離れていても、同時に何十人で瞑想したことがある方なら誰もが感じる波動の共鳴効果です。
皆で祈ることは、それはすなわち、多くの方の癒しにつながります。
皆で瞑想することも、多くの方の癒しになるのです。
人間は、皆んなそれぞれ出来ることが限られています。
何も出来ないのにSNSで情報を観覧し拡散するのは、混乱の状況を拡散させるだけです。
同情して、自分もネガティブになるのが愛だと思っているのなら、それも誤り。
同じ状態になることは誰も望みませんし、ネガティブな人が増えても、誰も幸せになりません。
何も出来ることがないなら、SNSを見て心をざわつかせているよりも、瞑想するか?祈った方が良いのです。
もちろん、金が出せる人は、金を出せばいいと思います。
わたしも、日本のどこかで地震があった際は、毎回義援金を振り込む様にしています。
続く・・・
集団はわかりませんが、レイキ(足算)やQE(引算)などの手法で遠隔でエネルギーのやり取りをした時に、身体が暖かくなるなど、何か変化を感じることはありますね
最近は専ら身内に遠隔QEワークを完全呼吸瞑想と兼ねて実行しています
東日本大震災の時は、数カ月間、毎月iTunes経由(だったはず)で寄付をしていたのが懐かしいです
はいぃ⭐️(●´ω`●)ノ
レイキはいろんな方にやってもらったことがありますが、私の場合はいまいち体感できませんでしたっw
何回か続けないと効果を感じられないのでしょうね👀
QEワークは名前こそ聞いたことありますが、全然知らない分野です🌈
いろんな手法があって面白いです〜♪
ブログを覗いたのは久しぶりです。配信の音で聞くだけより、活字で目に入るほうが分かりやすいような気がします。ですから、配信中に画面に図や文章を出して頂けるのがありがたいです。祈りと瞑想について分かっていたような気がしますが、こうしてはっきりすっきり示して頂いてよかったです。こちらの教会などでも、被災者や被害者のために祈るというのは普通にされているようなので、いわゆる念願祈願とは違う形で行われているようです。祈ると言うとどうしても特定な結果を期待しているように受け取りがちなんですけど、本当に何が大切なのかと考え続ければ、答えがないというところにたどり着いてしまう気がします。それで、祈りと慈悲の瞑想が同一化してしまいますね。命を尊ぶということかな?
はいぃ⭐️(●´ω`●)ノ
コメントありがとうございます
祈りとは、サレンダーであり、帰依ですね⭐️🐻