目覚めとは、自分は特別な存在だという物語から覚めること〜糞して起きて寝てあとは死ぬのを待つばかり(一休宗純)〜

わたしは子供の頃から病弱で、学校の成績も悪く、いわゆる陰キャでだったのですが・・・w

もしも、わたしが生まれつきもっと身体が強く健康で、人付き合いもうまく、容姿端麗で、世渡り上手でもっと頭も良かったら・・・

おそらく、スピリチュアルも、心理学も、脳科学も、仏教も、TAOも探究することはなく、今でも傲慢な性格のまま、苦しみながら生きていたことでしょう。

わたしは自身のこうした経験から、スピでよく言われる、天命・使命・生まれ持った気質などについて、もう少し深く考えるヒントがあるのではないか?と、感じています。

なぜなら、自我は天命という物語も、自我の燃料にしている場合が多い様に思えるからです。

天命や使命はありません

例えば、「あなたにも生まれ持った特別な天命がある☆」と言った様な聞くと、その話を聞いた自我はどの様に考えるのか?と言いますと・・・

「自分にも、お金や社会的ポジション、承認欲求を満たせる様な社会的評価を獲得する可能性や才能が、備わっているのではないか?」と、期待します。

あるいは、スピリチュアル探求者なら、「自分の天命は、魂のレベルを上げて人々を導くことなんだ!」と、思うかも知れません。

この様に自我は、スピリチュアル的な天命や使命という考え方までも、自動的に自分の承認欲求を満たす道具にしたり、物的成功のための条件として捉えようとするのです。

では、生まれつき寝たきりの人などは、どうなるでしょう?

これに対して、津留晃一さんの答えはナカナカです。

と、答えています。

津留晃一さんこの返答の仕方はナカナカ秀逸ではあると思いますが、実は、これは優しさを含んだ方便であると言えます。

生まれてきた理由や、天命を語るのは確かに美しい。

生まれ持った能力を活かして、世の中のために活躍し、人助けをし、そこから感動が生まれる。

こうした感動物語は人を魅了します。

しかしそれは同時に、エゴの燃料にもなります。

例えば・・・

スピ界隈では、この様な物語が、ありがたい話として頻繁に語られていると感じます。

こうした物語は表面的にも美しく、多くの人の心(エゴ)を掴みます。

だから、ハリウッド映画にしても、アニメやドラマにしても、この様な成功物語、逆転ストーリー、特別な人間とそうでない人間の関係性が、もてはやされるのです。

目覚めとは、自分は特別だという物語から覚める事

病気が治った!経済的ピンチから脱して金持ちになれた!

この様な、苦境から逆転し成功を果たす物語は、スピ界隈では奇跡としてよく語られます。

しかし、本当のことを言いますと、「目覚め」とは、そういった物語からすらも、覚めることなのです。

辛い人生も、喜びの人生も、どちらも物語の中で起きていること。

つまり、私という体験装置が作り上げた、自己解釈による一人一宇宙なのです。

なので、一見すると奇跡的だと解釈される出来事でさえ、深いスピリチュアリティの理解においては方便であり、そんな夢から目覚めるのが、スピリチュアリティにおける目覚めなのだと言えます。

「すべてが逆」

「全て逆」とは、少し前からスピ界隈で流行っているパンチワードですが、文字取り、すべて逆なのです。

宝くじが当たるなどの奇跡的な出来事が起きたとしても、超越的なスピリチュアル体験をしたとしても、それすらも、そうした体験の記憶を持ち運びエゴが利用した時点で、それは、解釈という物語の中で起きていることになります。

目覚めとは、そういった一連のストーリから覚めることです。

これは、スピリチュアル愛好家の方ほど、受け入れられない話でしょう。

だから、すべては逆なのです。

受け入れることができる話であれば、逆ではありません(笑)

受け入れられないから、逆なのです。

世の中は起きて箱(糞)して寝て食って、後は死ぬるのを待つばかりなり

これは、一休宗純の残した名言です。

自我が魅せるストーリーを超越し、悟りに至った一休さんは、「悟りなどなかった!」と、悟りを伝えました。

つまり、特別な体験や、特別な出来事などないのです。

スピリチュアル的に、特別な使命を持った魂がいるわけでもありません。

ワンネスと言う言葉がある様に、みんなひとつで、みんな同じなのです。

オケラだって、アメンボだって、みんな同じである様に、たとえ犯罪を犯した者であっても、聖人君主な様な立派な人間であっても、存在としての本質は同じです。

この事実は、多くの方には受け入れられません。

だから、すべては逆なのです(笑)

しかし、それで大丈夫です。

人生に間違いは起きていません。

人間はつまるところ、クソして寝るだけです。

よって、どの様に生きたとしても失敗ではなく、どの様に生きても本当はOKなのだと言えます。

天命という使命感が、自分を縛っている

最初からわたしたちは、何者にも縛られることがない「自由な存在」だと言えます。

例えば、「ツインソウル」というスピリチュアル業界が生み出した概念を追いかける事で、自分自身で出会いの幅や、人間関係の幅を狭くしている事に、お気づきでしょうか?

「ライトワーカー」や「スターシード」と言った、これまたスピリチュアル業界がビジネスのために生み出した概念によって、「自分は地球人を救う高い波動の魂であるはずだ」と、自身の惨めさを慰めている事に、お気づきでしょうか?

クリシュナムルティ曰く、人が感じる惨めさとは、自我による分離感が根源です。

つまり「わたしと、わたし以外の人間に分かれている」という感覚が強くなるほど、「わたしは他者より優れていなければならない」という思い込みに囚われてしまうのです。

そして、探究者ほど、「自分はスピ的なメッセージを伝える特別な魂だ」と、エゴを肥大化させてしまう罠にはまりがちです。

これは、禅仏教で言えば「魔境」「禅病」「生悟り」と言われる状態で、スピリチュアリティを学ぶものほど陥りやすい罠であり、同様に、組織宗教においては、組織内での役職が上に上がるほどハマりやすいエゴの罠かと思います。

よって、宗教組織にいる人間は、上の立場にある人間の方がエゴが肥大化している傾向があり、神から離れていると言えます。

これはとても皮肉な話ですが、傾向的にはそうなっていますので、皆さんも良く見極めてみてください。

事実としましては、スピリチュアル的に特別な何かや、宿命的に定められた能力など、そんなものはない事に気づけます。

「世の中は起きて糞して寝て食って、後は死ぬるのを待つばかりなり」と、一休さんが語った様に、人間である以上、食べて、うんこして、寝て、死ぬのを待つのが人生であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。

しかし同時に、「何者も、わたしたちを縛っていない」と、言うことにも気づいてきます。

自分には、天命や使命がある、人助けをするための能力がある、生まれ持った気質を使い社会貢献をするための力がある、と考えることは、同時に、そう言った解釈という不自由さで自分を縛っていることにもなります。

私たちを縛って裁いているのは、わたしたちの観念だけです。

つまり、自作自演なのです。

よって、本当は、わたしたちは際限なく自由なのです。

天命も使命もないから、わたしたちは自由なのです。

わたしたちは、自分で思った通りの人間になっています。

観念や信念という思考の檻が、自分自身を「わたし」の奴隷にしているのです。

「わたし」の不在を見抜くけば、行為者は存在していなかったと気づけます。

ことは勝手に起き続けている。

その結果に対して、後から思考が物語を捏造している。

思考の虚構を見抜けば、人は自由になれます。

なので、もっと自由な発想をし、心の鎖を解き放つことで自由な人間になればいいのだと、わたしは思います。

続く・・・

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